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その時代は、70年安保や関連した大学紛争が下火になり、政治風土にはわずかに小田実氏が主唱する「べ平連」がソコソコ、過激派は成田三里塚闘争では、1960年代後半から活動をし、コレは今だに終焉していない。
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騒然とした時代が仮に、長期政権の佐藤政権によるマンネリズムへのアンチテーゼが、時代の機運に織り込まれていたとすれば、それまでの宰相の経歴とは一線を画す田中角栄氏の登場は、当初かなり好意的に受け止めらえていたと記憶。
ところが、従来の日本外交と日米外交の主導権は、官僚経験のある保守系政治家や財界とのパイプの太い政治家がにぎらており、そこに、田中総理は割り込んで居場所を確保するスペースはなかったものの、ニクソン・アメリカのキッシンジャー外交による頭越しの中国との国交回復がはじまり、それ自体が。極東の枠組みが崩れ始めた瞬間だったと後年言われているデス。
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目ざとく、利ざとい田中角栄氏にとって、この新時代の外交ターゲットは、地域的、距離的には日本のメリットがあり、コミュニケーションハンディキャップは米国とは同列にあることを見逃すはずがありません。
さらに、布教狙いで対中国アプローチで先行していた、とある宗教団体の指導者と、その宗教団体を支持母体とする政党の後ろ盾を得て、メデタク日中国交回復を成し遂げた。
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かくて。ここで、
と言えそうデス。
昨今では「下駄の雪」と揶揄される公明党ながら、当時の選挙区制は大選挙区制で、現在のような小選挙区制ではないです。 ですから、自民候補者二名、あるいは三名の当選が可能で、残りの一議席を公明党を含む野党で取り合う構図でしたから、選挙協力ということで、公明党+創価学会に特段依存することもなく、生ぬる~い関係だったはずです。